神楽とは?

「神楽」とは何だろう?
ここでは、日本の神楽。そして広島県の神楽について解説。

「四方祓」(川北神楽団)

日本各地に存在する神楽

その漢字の通り、「神を楽しませる」舞楽や舞を指す。
古来より日本人は、自然やモノなどには神が宿ると考え、人々はその神々(いわゆる「八百万神」)を崇めてきた。五穀豊穣や無病息災、そして死者の鎮魂を主な目的とし、祈りや感謝を伝える儀式の1つとして、太鼓や笛を奏でると共に舞を舞い、神社などで神事として奉納するのが「神楽」であった。
「神楽」には、大きく2種類あり、宮中で執り行われるものを「御神楽」と、各地方で神職や民間で執り行われるものを「里神楽」という。
例えば、秋田県の「保呂羽山霜月神楽」や島根県の「出雲神楽,大元神楽,石見神楽」、大分県の「植野神楽」、宮崎県の「高千穂神楽」などがある。

また一説によると、天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩戸に隠れてしまったときに、宇津女命(うずめのみこと)が何とか天照大神を連れ出すために、岩戸の前で舞った(踊った)舞が「神楽」の始まりともいわれている。


広島県内の神楽

独自作成図

広島県には大きく分類し、5種類の神楽が継承されている。
12の舞を奉納することから名のついた安芸十二神祇や島根から伝播し独自に進化してきた芸北神楽、瀬戸内海の島、沿岸部で行われる芸予諸島の神楽、岡山の備中神楽の影響を受ける比婆荒神神楽、五行祭と言われる歌や語りが楽しまれる備後神楽である。
当法人が焦点を当てている「旧舞」は芸北神楽の中でも第二次世界大戦前より継承されていた演目を指す。


芸北神楽の歴史

年代出来事
江戸後期から明治初期頃島根県より石見系の神楽が広島県に伝わる。
神職への神楽禁止令が出る。やむを得ず、氏子が神楽を舞い始める
「神事」という意味合いだけでなく、民衆の娯楽・芸能としての一面も持ち、全国的に見ても類を見ない独自の進化(芸能性を持った演目、きらびやかな衣装など)を遂げる。
第二次世界大戦後GHQから「神楽禁止令」が出る。
美土里町(今の安芸高田市)の故 佐々木 順三氏は、このまま神楽を廃れさせてはならないと考え、歌舞伎などの要素も取り入れた新たな「神楽」を創った。今で言う「新舞」の誕生である。
その後、「神楽禁止令」は解除され、戦前からあるものを「旧舞」、戦後に作られたものを「新舞」と呼ぶのが一般的になった。
安芸高田市から一気に広がりを見せ、「新舞ブーム」と言っていいほどの人気が急上昇し、芸北神楽はほぼ新舞一色になった。
昭和後期頃やがて、「旧舞」の良さも見直され、新旧どちらも大切に継承していく必要があるという動きが出始める。
近年演劇性・芸術性に長けた「スーパー神楽」なるものも誕生し、様々な方面から評価をされる広島の大切な伝統として今日まで継承される。
「芸北神楽の歴史」(独自取材を参考に作成)

旧舞・新舞

「塵輪」(川北神楽団)

旧舞:第二次世界大戦前から舞われていた演目を指す。儀礼的要素の強い「儀式舞(神祇舞)」と芸能的要素の強い「能舞」の2種類に分けられる。
Ex)四方祓,胴の口,鍾馗,塵輪,恵比須,大江山,八岐大蛇 など

「吾妻山」(横田神楽団)

新舞:第二次世界大戦後に、美土里町(今の安芸高田市)の故 佐々木 順三氏によって創作された演目やその後、各地で創作されていった演目全般を指す。
Ex)滝夜叉姫,紅葉狩り,葛城山(土蜘蛛),山姥,吾妻山,戻り橋 など


六調子・八調子

大太鼓(川北神楽団)

石見系の神楽を語るのに欠かせないのが、「六・八調子論」である。
ただ、これについては周知のとおり、未だに決着がついておらず、現代ではその見分けがなかなか難しくなっているのが現実である。今回は、私が取材した内容と竹内幸夫氏の文献(「私の神楽談義(Ⅲ)神楽前線」H13.8.25発刊)から、簡単ではあるが一説として紹介する。

六調子は「トントコ、トントコ、トントコ、トントコ」のリズム。
八調子は「トコトコ、トコトコ、トコトコ、トコトコ」のリズム。
と一般的に論じられる。

芸北神楽、そして石見神楽の源流とされているのが島根県の大元神楽であるが、この神楽は六調子神楽である。では、八調子はいつ頃生まれたのであろうか。
竹内氏によると、島根県浜田市で八調子が生まれたのは、明治の神職による神楽の禁止令が出たまだ後であると述べているため、その頃までに盛んに伝播され、継承されていた広島県の芸北神楽は、浜田八調子の影響は受けていなかったと考察される。

しかしながら、前述したようにこの六・八論には定説がない。それは、現実問題この調子というものが混在しているからである。六調子といえでも、鬼囃子になれば八調子の要素が垣間見えたり、八調子といえども、六調子の名残が払拭できていなかったりと、芸北神楽の師でもある島根県の中でもこれといった正解がない。つまり、いろんな文化に影響され、受容されてきた芸北神楽なんて言うまでもないが、はっきりとした区分をすることは困難なことである。

ただこの調子の区分によって、その神楽団の継承する神楽が学術的にどのような系統なのかという1つの手掛かりになることも多いため、どっちでもいい、ということはない。


旧舞の魅力

ー生で見て感じるべしー

「尊神」(川北神楽団)

①旧舞にしかない重厚感
ひとつひとつの所作に、長く継承されてきた時代の重みが感じられる。衣装や面には何十年も使われている古いものもあり、時代の重みだけならず、先人たちが大切に継承した思いまでも感じられるのではないだろうか。実際に先人の言葉に「動かざるは最大の脅威である」というものがある。この言葉は、まさに旧舞の所作の重みを表すものではないだろうか。

②落ち着いた調子
新舞は、基本的に八調子(ややテンポが速め)で、旧舞は、基本的に六調子(テンポが緩やか)であるといわれているが、実際のところは、この六・八調子論はいまだに終決しておらず、断言することは到底不可能である。とはいえ、、やはり旧舞の演目は新舞の演目よりも落ち着いた調子であることが多い。緩やかな調子であるからこそ、鬼舞や合戦の舞では、緩急の差がついた調子の変化の迫力は圧巻である。

③古参の舞
旧舞は、新舞よりも緩やかな調子で、舞も新舞ほど速くはないため、60,70歳を超えても、舞うことは可能である。長い方では、半世紀以上舞われている方もおり、古参の舞には、言葉に表せきれない独特の「味」のある舞が見られる。

④静と動
静と動のメリハリがあるのもまた旧舞の魅力ではないだろうか。
採物(とりもの/舞人が持つ幣や扇、鬼棒などを指す)の動き一つにも、繊細な静と動があり、なによりも鬼と神が幕を挟みあって探り合いをする場面では、緊張感のある静と動は見どころである。また、肩や頭の位置は動かないのに足は動くといった、静と動の融合にも旧舞特有の重厚感や優雅さが表れている。実際に、舞人が練習時、最も気をつけるポイントの一つでもある。

⑤面を生かす
旧舞に、より多くの面を用いる。「被る前に面の相をよく見て被れ」という言葉があるように、旧舞では特に面を最大限生かすため、所作の一つ一つ、口上を意識します。時には、荒々しく、悲しげに、おどけて、と一つの変わるはずない面が表情を見せてくれる、面が生きる、そんな瞬間に出会えたあなたはもう旧舞の世界の第一歩を踏み出しているだろう。


神楽文化の抱える課題

「大江山」(川北神楽団)

①止まらぬ衰退と二極化
近年、観光資源として新舞などの華やかで大衆受けされやすいものが活用され、盛り上がりを見せる。一方で、旧舞(特に儀式舞)が活用されにくく、理解されにくい現状も発生している。演目や神楽団体そのものが衰退していっている。

②後継者不足
少子高齢化や村社会の崩壊、人口流出による過疎化を原因とし、慢性的な担い手不足、後継者不足で頭を悩ます神楽団体が多数存在。中には70歳を過ぎても、舞人として舞台に立ち、大切な神楽文化を守ろうとする方までいる。担い手として神楽に関わることも大切である。

③資金不足
やはり神楽団体を残していくためには、「金銭」は非常に重要な要素である。神楽団体を維持していくだけでも多額のお金がかかり、衣装や面を買うのなら数百万円の出費となる。奉納での御花(寄附金)やイベントでの出演料が神楽団体を支えているが、これも年々減少傾向であったり、神楽団体間や地域間の格差が拡大している。


演目紹介

神楽団体紹介

奉納・公演情報


おねがい

※「神楽」というものは、非常に複雑かつ民俗的な一面を持ち、定義1つとっても説によって大きく異なる場合もあるようなもので、学術的にもまだまだ研究が進んでいないものであると認識しております。
先人の言葉に、「神楽の伝播のことは軽々しく論ずるべからず」という言葉があります。この言葉を胸に刻みつつ、一般的で有力なエビデンスに基づいて記載をしていますが、1つの説、意見としていう認識を持って、ご理解ください。